哲学史7
19世紀のドイツ哲学


・ヘーゲル左派とマルクス主義者
 フォイエルバッハマルクスエンゲルス
実証主義と新カント学派
・生の実存の哲学の胎動
 キルケゴールニーチェ
20世紀初頭
・現象学派
 ボルツァーノブレンターノマイノングフッサールシェーラー
・実存の哲学
 ヤスパースハイデガー

ヘーゲル左派とマルクス主義者

 

ヘーゲル左派の登場

 

1831年の絶頂期のヘーゲルのコレラによる急逝により、19世紀のドイツ哲学が胎動し始める。

 

ヘーゲル批判

心理学的分析を重んじて経験的心理学を哲学の基礎に据えるフリース、ヘルバルト、ベーネケ

歴史学派(hisitorial schule):正確な事実確認の重視、各時代の個性的意義を説くサヴィニー、後のランケなど

その他にヘーゲルの自然観も数学、実験的自然科学などから非難を浴びた。

 

そしてヘーゲル学派の内部においても、とくにその政治と宗教とをめぐって激しい論議が展開され、分裂するに到った。

その直接のきっかけになったのはシュトラウスの『イエス伝』1835であった。

この書においてシュトラウスは宗教の徹底した合理化、人間化を図る。それによってヘーゲル学派は政治的にも、宗教的にも保守的な「老ヘーゲル学派」と、宗教的にも政治的にも急進的な「青年ヘーゲル学派」とに分裂する。そして、そのいずれにも属さない中央派もあった。

マルクス主義は、この内の青年ヘーゲル学派から成立するのである。

 

ヘーゲル左派

シュトラウス、バウアー、ルーゲ、シュティルナー(カスパール・シュミット)ハイネ、ヘス、フォイエルバッハ、マルクス、エンゲルス等。

彼等は、理念的な哲学体系はヘーゲルにおいて完成したと見て、新たな時代に実践的に関与して、哲学を現実化しようと試みた。彼等はヘーゲルの思想に、現実的なものの合理性の擁護という態度よりも、むしろ不合理な現実を破壊して、これをより理性的なものに革新すべしとする、否定的、革命的、批判的要求を聞き取り、これを自ら実践したのである。

 

フォイエルバッハ(Ludwing Andreas Feuerbach,1804-1872)

エルランゲン大学の私講師1829

『死と不滅性に関する思想』1830

上の発表によって失職1832

ニュンベルク郊外のブルックベルクに隱棲1836

『ヘーゲル哲学の批判』1839

『キリスト教の本質』1841

『哲学改革のための暫定的テーゼ』1842

『将来哲学の根本命題』1843

 

『ヘーゲル哲学批判』

ここで彼は、ヘーゲルの思弁を退けて感性的・個別的な現実の重視と共に、観念や表象が現実的対象を真に問題化しているか否かを吟味する「発生的・批判的な哲学」を説く。

それを宗教に適用したのが『キリスト教の本質』である。

ここにおいて、キリスト教的宗教・神学・哲学一般が批判され、その結果

「神学の秘密は人間学にある」

というテーゼが打ち出された。

すなわち、人間の類的本質は理性と意志と愛にあり、これらを一人の人間として外化され、至上の存在者として表象されたのが、神であるとした。彼は宗教という人間の外化を、再び人間自身の内に取り戻そうとしたのである。

 

『哲学革命のためのテーゼ』『将来哲学の根本命題』

現実的存在を解明すべき哲学は、感性的直観によってその語り難い秘密を捉え、肉体をもって思索する人間の立場に立たねばならない。その結果、愛こそは存在の秘密であり、人間の本質は共同存在のなかにあり、人間の本質は共同存在のなかにあり、哲学の究極の原理は人間と人間との統一出あることが、明らかであるとされる。

 

マルクス(Karl Heirich Marx,1818-1883)

トリアー出身のユダヤ系

ボン大学に一年在籍

ベルリン大学に移籍1836

哲学専攻に転属

『デモクリトスとエピクロスの自然哲学の差異について』1841

『ライン新聞』の主筆となって政治評論を発表する1842

新聞発禁1843

ルーゲと共に『独仏年誌』発刊1844

『ユダヤ人問題によせて』1844

『ヘーゲル法哲学批判序説』1844

『経済学・哲学手稿』1844(公刊932)

エンゲンルスと共に『神聖家族』を公刊1845

『ドイツ・イデオロギー』の共同執筆

共産主義者同盟に参加1847

『共産党宣言』共同執筆1848

『新ライン新聞』1848

ロンドンに亡命1949

『経済学批判』1859

『資本論』第一刊マルクス1867

第二第三刊エンゲンルス1885、95

 

『ライン新聞』のころのヘーゲル

人間の自由を擁護する現実的ヒューマニズムの立場

『ユダヤ人問題によせて』のころ

人間の類的本質を真に実現する「人間的解放」を主張。

『ヘーゲル法哲学批判序説』において

ドイツ革命を念頭において、徹底した「普遍人間的解放」の主張。革命の担い手をプロレタリアートのエネルギーに求める。

『経済学・哲学手稿』において

労働分析において人間の「自己疎外」を解明

自己疎外の四つの状況

1 労働とその結果としての商品の分離

2 過酷な作業による人間と労働との分離

3 労働によって文化を作るという歴史形成の営みという類的(公的)生活が、私的生活の手段に堕す。

4 それらによって、人間相互の反目と疎外が招来される。

これらを指摘しながら、人間の自己疎外に外ならぬ「私有財産」を否定するものとしての「共産主義」というヒューマニズムの立場を提起する。

ここに、経済的土台の変革のうちに人間的解放の必然性を見出す「唯物史観」の基本が形成される。

 

『経済学批判』の序言のなかで、唯物史観の公式が確立される。

社会の経済的構造が「土台」となって、その上に法律・政治・道徳等の意識諸形態という「上部構造」が前者の「反映」として成り立つ。

さらにこの土台は「生産力と生産関係の矛盾」を解して、「革命」の形で、おのれを必然的に展開して、必ずや共産主義革命にまで至ると主張する。

その革命による最終段階を『共産党宣言』においては「協力体」として描き出される。

 

エンゲンルス(Friedrich Engeis,1820-1895)

ライン州バルメンの紡績工場主の息子として生まれる。

兵役でベルリンにいき、大学の講義を聴講1841

『国民経済学批判大綱』1844

『反デューリング論』1877-78

『空想から科学への社会主義の発展』1880

『フォイエルバッハ論』1886

『自然弁証法』1873-83、公刊1925

マルクスの死後にその遺稿を出版

ロンドンにて逝去

 

マルクスとは対象的に1870年代より、重要な哲学的著作群を発表し始める。

そこにおける特徴

自然・物質そのものが精神・意識を規定するという広義の「唯物論」を説き、フォイエルバッハの唯物論を称揚しつつも、それを、弁証法を見失っているとして批判、翻ってヘーゲルの弁証法を称揚する点である。

弁証法;事物を固定的に見る「形而上学」的考え方を捨て、自然と歴史とをその不断の発展連関に置いて捉えることをさす。

弁証法的唯物論:純粋に哲学としては論理学と弁証法のみを残し、実質的には哲学を自然と歴史に関する実証科学に解体し、上記の弁証法的考え方を用いて、自然については「自然弁証法」を、歴史については「唯物史観」(史的唯物論)を提唱したのである。

 



実証主義と新カント学派のあいだ

 

実証主義をめぐる諸潮流

19世紀中期以降は、反ドイツ観念論・反形而上学の色彩が濃く、これに、コントの実証主義、ミルの帰納法的論理学、スペンサーの進化論的な総合哲学等が相まって、ドイツにおいても実証主義的諸潮流を生み出した。

 

機械的・生物学的唯物論;人間を物質的機械と捉える。1890年代には凋落。

モレショット:「燐(リン)なくして思想はない」

フォークト:「思想我の宇髄に体する関係は、ほぼ胆汁が肝臓に、あるいは尿が腎臓に体する関係に等しい」。ヴァーグナーとの「唯物論論争」

ビュヒナー:『力と物質』1854

 

一元論的な自然哲学:進化論思想とエネルギー不変の法則が結び付けられた自然の一元論的説明。

ヘッケル、『世界の謎』世界の謎は全て解きうる。

オストヴァルト、

 

不可知論:デュ・ボワ・レーモン『世界の七つの謎』1882

1物質及び力の本質、2運動の起源、3生命の発生、4自然の合目的性、5感覚の発生、6合理的思考と言語の起源、7意志の自由

346は不可能ではないが、1257は完全に不可知とした。

 

唯心論的哲学

思弁的唯心論;小フィヒテ、

ドイツ観念論;ヴァンセ、ウルリッツィ、ボルツァーノ、トレンデレンブルク

唯心論的形而上学;フェヒナー、ロッツェ

 

自然科学的基礎に立って統一的世界観を要求

ヴント、フォン・ハルトマン

 

実証主義的認識論

ラース、アヴェナリウス『純粋経験批判』『人間的世界概念』、

マッハ『感覚の分析』『認識と誤謬』「思考の経済」説の提唱

実証主義;内外の知覚にのみ基礎を置く哲学であって、知覚内容以外に特別の意識や自我を立てず、また知覚客体の多様な変動性を認め、世界を可能的知覚全体と見、ゆえにこれについての絶対的認識を拒むが、知覚を要素間の合法則的関係に変容した客観的認識はこれを認め、またそれを目指巣、といった考え

方。

 

新カント学派

反形而上学でありながら、実証主義にはならず、カントの批判主義を復興して、科学そのものの学的基礎付けを目指す認識批判の哲学。1860年代なかばから起こる。

ベーネケ。フリース、フォトラーゲ『へーゲル哲学の欠陥』「カントに帰れ」32、フィッシャー『カント』60、ツェーラー「カントに帰れ」、ランゲ『唯物論史』66、リープマン『カントとその亜流』1865

ランゲにおいては、カントの認識条件は、人間の生理学的・心理学的な機構として解釈される。

 

マールブルク学派

コーヘン、ナルトプらをその代表とする。

コーヘン

カントの超越論的批判主義的設問を継承

『カントの経験理説』71『カントの倫理学の基礎付け』77『カントの美学の基礎付け』89

経験理説において直観と悟性の二元論を克服し、空間・時間をも思考のカテゴリーと見る思考一元論を説く。

 

ナルトプ

プラトンにまで遡って、理念に基づき多様を統一して対象を思考において構成する方法論的哲学を提唱。『プラトンのイデア論』1903『精密科学の論理的基礎』1910『哲学、その問題と諸問題』1911『普遍心理学』1912

 

バーデン学派(西南ドイツ学派)

ヴィンデルバンド

K.フィッシャーとロッツェの弟子。

自然科学を「法則鼎立的」、歴史科学を「個性記述的」として、両者の方法論上の差異に着目し、とりわけ歴史科学が価値の観点から有意義な個性的出来事を捉えるものと見て、真・善・美・聖の価値の「妥当」というロッツェ的な見解を主張した。

 

リッケルト

ヴィンデルバンドを継承して、自然科学を『一般化』、文化科学『個性化的』と特徴づけ、その根拠を明らかにした。(『自然科学的概念構成の限界』1896、『文化科学と自然科学』189)

すなわち、知覚的所与は、「異質」的内容「連続」だが、それを同質的連続の面から捉えれば自然科学が出現し、異質的非連続性の面から捉えれば文化科学が出現する。



生の実存の哲学の胎動

 

「自由論』1809以降に始まるとされる後期シェリングにおいて、反ヘーゲルの立場から、理性によっては捉えられない実存へと目を向ける新たな思索が展開され、とりわけ1841年以降ベルリン大学において「積極哲学」が講述されていた。これを最初は感激をもって、そして後には激しい嫌悪を持て聴講したキルケゴールは、ヘーゲル左派や、実証主義とは異なる、単独者の主体的実存の思想を提起して、後の実存哲学先駆となる。

 

キルケゴール(Soeren Aabye Kierkegaard,1813-1855)

コペンハーゲン出身

『イロニーの概念について』1841

『あれかこれか』1843

『恐れと戦き』1843

『反復』1843

『哲学的断片』1844

『不安の概念』1844

『人生行路の諸段階』1845

『哲学的断片に対する結論的な非学問的後書』1846

『文学評論』1846

『死に至る病』1849

『キリスト教の修練』1850

『我が著作活動の視点』1848,1859

『瞬間』1855

 

キルケゴール

キルケゴールにとって生涯問題であったのは、「自己」自身の在り方に関心を向けて、いかに生きるべきかを真剣に問うことであった。この意味で、彼は、客観的・思弁的なヘーゲル的思考に終始批判の歯を向け、これに対して、「単独者」としての自己が、死にさらされた有限性のただなかで、主体的に本来的在り方を求めて、情熱的に真実を探究し、真の自己へと生成すべく無限の関心を傾ける生き方、そうした「内面性」の諸問題を、このうえなく大事なものと考えた。この自己の主体的在り方が「実存」と呼ばれる。

「自己とは、当の己の関係自身へと関係する関係である」。そして、このような関係を借定した他者(神)の内に己を基礎づけてこそ、真の在り方がみのる。

 

ショウーペンハウアーからニーチェへ

一方ヘーゲルの存命中に既に活躍していたショーペンハウアーの系譜を引きながら、ニーチェ「生の哲学」の原動力となり、また「実存哲学」の源泉となった。

 

ショーペンハウアー

『意志と表象としての世界』1819

ショーペンハウアーはカントの見解を単純化した形で継承する。認識される限りでの世界は、空間・時間及びいんが性を介して捉えられる現象すなわち私の「表象」に過ぎず、決して物自体ではない。

ショーペンハウアーは世界を自体的には「生への盲目的意志」と捉え、この意志が自然全てに偏在しているとなし、人間の意志をその最高の発展段階と見る。

飽くことなき盲目的意志である世界は「苦」であり、苦からの救いは「意志の否定」すなわち「禁欲」によるほかはなく、ここにおいて「無」「涅槃」への解脱が成就する。

 

生を否定しようとするショーペンハウアーのいわゆるペシミズムは、そのなかに不合理な生を超克しようとする真摯な思索を宿しており、その影響から、一転して生の肯定の哲学者ニーチェが登場してくる。

 

ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche,1844-1900)

ザクセン州の牧師の子として生まれる

ライプチヒ大学で学ぶ

バーゼル大学古典文献学員外教授に就任1869

『悲劇の誕生』1872

『反時代的考察』1873-76

病気のため職を辞す1879

『人間的余りに人間的』1878-80

『曙光』1881

『喜ばしい知識』1882

以上三冊はアフォリズムの書

『ツァラツストラはかく語りき』1883-85

『善悪の彼岸』1886

『道徳の系譜』1887

『ヴァーグナーの場合』1888、1889

『偶像の黄昏』1888、1889

『アンチクリスト』1888、1894

『この人を見よ』1888、1908限定、1911公刊

『ニーチェ対ヴァーグナー』1888、1895

『権力への意志』(遺稿)とされてきた「80年代の遺稿」

 

初期ニーチェ

「アポロ的なもの」;美しい説度ある仮象を夢見る造形芸術の精神

「ディオニソス的なもの」;説度や限界や個体を破壊して、苦悩と歓喜の永遠の根源的一者の生命に融合しようとする陶酔的な音楽芸術の精神

この二元的対立の図式。後者をより根源的とする。

このような存在の深みを関知することなく、表面的な理論知を盲信する精神が「ソクラテス主義」と呼ばれ、この名の下に、地上の進歩楽園の到来を期待する安易な合理主義・功利主義を念頭に置き、これらを批判した。やがて、歴史学的な知の集積に終始するだけの歴史主義的病癖を暴いて、非歴史的・超歴史的に創造的行為に踏み切るいき方を喚起する「生の哲学」的態度表明となって結晶化した。(『反時代的考察』「生に対する歴史の利害」)

 

後期ニーチェ

「神は死んだ」の宣言によって、彼岸に真の世界を設定するプラトン的・キリスト教的価値観が崩壊したとする。それは、そのまま無意味なものの永劫回帰する極限的な「ニヒリズム」が、時代の戸口に立ち始めたことを意味する。

万物は力に外ならず、この有限の力が無限の時間の中で展開する以上は、等しい諸状態の繰り返しが行われざるを得ない。世界は永遠に戯れ遊ぶ諸力の海、永遠に自己自身を創造し、かつ破壊する円環運動であり、ディオニソス的世界である。この万物の永劫回帰を前にして、それをもう一度、否、永遠に繰り返して生きることを望まざるをえないような仕方で生きる決意をした人は、生の肯定に転じたとされる。

「これが人生だったのか。よし、それならばもう一度!」という勇気がこれであり、その時「運命愛」が実る。それは、自己超克的な「権力意志」が己の円環的全体を肯定する瞬間でもあり、こうした自己を超えて行く人間が、「超人」と呼ばれた。



20世紀のドイツ哲学

 

世紀の転換期

時代全体の転換と危機の意識は、既に徐々に醸成されており、時代批判的内容を盛り込んだ書物が一般にも多く刊行されていた。ラテナウ『時代の批判』、レッシング『地上における精神の没落』、シュペングラー『西洋の没落』、クラウス『人類の最後の日々』、カイザーリング『新しい世界』、クラーゲス『魂の敵対者としての精神』、ヤスパース『現代の精神』、ホイジンガ『明日の影で』など

 

新カント学派の解体

新カント学派の本来の代表者立ちはほぼ第一次大戦を境にして舞台から引いていく。一方その若手の人々の中からは、新しい変貌が生じてき、この学派は発展的に解消していく。

 

マールブルク学派

この学派の若手としては、キンケル、ゲールラント、クニッターマイヤー、とりわけ注目されるのはカッシーラーであった。

新カント学派は「文化の理論」をその特色としていたが、カッシーラーはカント的な「理性批判」がまさに精神の領域に広範にまたがる「文化の批判」へと結実した。

『認識問題』1906-20『カントの生涯と教説』1918『啓蒙の哲学』1932

精神的生の歴史的展開を後づけ解釈してその豊かな意味な成素を捉えるべく、膨大な歴史的研究書。

 

『実体概念と関数概念』1910

精神的な諸要因相互の連関の原理的把握についても、彼はかつてのマールブルク学派のように数学的自然科学のみを規範とはせずに、世界把握にはそれぞれ特殊な観点から様々な見解が可能と見た。

 

『象徴形式の哲学』1923-29

科学的認識のみならず、言語・神話・芸術・宗教等の精神的諸産物それぞれにその意義を認めた。

象徴形式をかいた直接的生や絶対的現実等はありえないとして、そうした無媒介の生の真理を把握しうるとしたベルクソン流の形而上学には反対した。

 

バーデン学派

実在的形而上学者ラスクは第一次大戦で戦没。

経験的自我を超えた、超自我の事行のうちに、価値の妥当を見出すミュンスターベルク。

歴史的研究でヘーゲルに近づくメーリス。

媒介と総合において弁証法的に進む理念の在り方に関心を示すバウフ。

認識方法の多様性を認め、ヘーゲルに近づくヘーリング。

矛盾の克服に開かれた過程を強調コーン『弁証法の理論』

リッケルトの「異定立」を継承し、ドイツ観念論の意義を顕揚したクローナー。

しかし、次第に方法論的にもドイツ観念論的な弁証法を取り入れて、内実ある文化的哲学的考察へと発展的に解消していった。その結果ついには例えば、リッケルトは、1920年前後からはヤスパースに批判され、また弟子でもあったハイデッガーから酷評されて行く運命にあった。

 

新ヘーゲル主義の台頭

19世紀は死せる犬のように無視されてきたヘーゲルは20世紀になって「新ヘーゲル主義」「ヘーゲル・ルネサンス」の脚光を浴びるに至った。(ヴィンデルバンド「ヘーゲル主義の台頭」1910)

その原因は一方で、広く世界観の要求に求められ、その他方では学的哲学の課題追及の必然性からこれが説明された。すなわち、かつてカントに即して哲学を認識論と見た人々はやがて心理主義に陥り、相対主義に堕してしまったのに対して、真の批判主義は「歴史」に即して「価値の妥当」を思索すべきであり、これが、歴史に定位して統一的理念の実現を考究したヘーゲル哲学の最高を促す所以のものである。

以上のようなヘーゲル復興は、生の哲学の台頭と共に結び付いた精神や歴史への関心と繋がる20世紀初頭の必然的な趨勢であったといってよい。



現象学派の運動

18世紀のランベルト以来ヘーゲルを通じて19世紀にも様々に用いられてきた「現象学」(Phanomenologie)という言葉に、新たな意義を引き込んで、現代の現象学派の運動の発端を形作ったのは、やはりフッサールであるが、そこに至るドイツ・オーストリア学派の系譜についても少し19世紀に遡って一瞥する必要がある。

 

ボルツァーノ(B.Bolzano,1781-1848)

 

彼は一時プラハ大学で、宗教学の教授を努めたが、後に失職することになる。主著は『学問論』である。

『学問論』

彼は諸学の基礎を明らかにし、諸規則を解明する「学問論」を構想し、心理学を拒んで、学問の基礎を客観的に確立しようと試みた。

 

判断内容と判断作用の峻別

判断作用:この実際の思考の働きは、時間の中の実在的出来事であるとなされる。

判断内容:それが実際誰かによって思考されたかと否かにかかわらず、それ自体として永遠的に存立する。「真理自体」「命題自体」「表象自体」

 

ブレンターノ(F.Brentano,1838-1917)

 

「記述的心理学」ないし「心理考察」

ブレンターノは最初、トレンデレンブルクのもとで、アリストテレス研究から出発した。(『アリストテレスにおける存在者の多様な意味について』1862、後にハイデッガーはこの書によって哲学に目覚めることになる)したがって、彼の内には、アリストテレス=アクィナス的な伝統が流れ込んでおり、ドイツ観念論やカントに批判的であった。そして、彼は独自の哲学体系の基礎として、経験的な心理学に求めた。(『経験的立場の心理学』)

これは、生理学に結びついていくような「発生的心理学」ではなく、内的知覚において、直接的に提示される真理現象の明証的な記述および分類を目的とする「記述心理学」(deskriptive Psychologie)ないし「真理考察」(Psychognosie)である。

 

真理現象の特色はその「指向性」であり、意識作用には対象への関係が本質的である。その対象は必ずしも実在する必要はない。このような真理現象は「表象」「判断」「心情活動」の三種に分類される。

二つの特色

意志と感情とを区別せず、愛憎と欲求とを広く「心情作用」に組み入れたこと

「表象」と「判断」とを峻別したこと。すなわち、諸表象の結合と判断とを区別し、逆に単一の表象であっても「神は実在する」といったものを判断としたこと。

 

何らかの対象の「表象」の上に、「判断」や「心情作用」が成り立ち、それら自身がまた表象としてその上にさらに種しゅの作用を加えられるものとなる。この二次的に関係することによって成り立つ内的知覚の明証性を根拠に、彼は記述的心理学を打ち立てたのである。

 

また外部知覚の対象である物理現象については蓋然的知識しか成り立ち得ないとした。

 

ブレンターノの弟子

マルティ、クラウス、リンケ、シュトンプ、ヒレブラント、カスティル、マイノング(「対象論」)

 

マイノング(A.v.Meinong,1853-1921)

彼は体験の四種類〜表象・思考・感情・欲求〜に対応させて、対象にも四種類〜客観(Objekt)・客観的なもの(Objectives)・位格的なもの(Dignitatives)・願望的なもの(Desideratives)〜を分け、対象の対象性は、思考的に把握されるか否かに依存しない点にあるとして、独自な「対象論」を解いた。

表象と判断の間に「想定」(Annahme)を設けたり、判断の客観的なものを「高次の対象性」と見たり、位格的なものに真・善・美をあげ、また「願望的なもの」に当為や目的の諸対象を考えここから価値論を展開するなどの創見を示した。

 

 

フッサール(Edmund Husserl,1859-1938)

オーストリアのプロスニッツにユダヤ人商家の子として生まれる

ライプチヒ、ベルリン大学を経て、ウィーン大学で数学上の論考『変分法論』によって学位取得

ウィーン大学でブレンターノの講義を聴き、哲学へと転向

ハレ大学のシュトンプに師事

『数の概念について』1887教授資格取得

ハレ大学私講師

『算術の哲学、心理学的論理的研究』1891

『論理学研究』1900

ゲッティンゲン大学に転属

『純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想』(イデーンT)1913

『現象学の理念』1907講義1950公刊

『厳密な学としての哲学』1910-11

フライブルク大学に転属

『形式論理学と超越論的論理学』1929

『第一哲学』1923-24講義1956-59公刊

『経験と判断』1919-20の草稿に1910-14、1919-34の覚書を加味してラントグレーベが編集1939

正教授の座をハイデッガーに譲る1928

『デカルト的省察』1929パリ公演1931仏語版1950独語版

『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』1934-37の仕事、その一部は1936雑誌発表1954公刊

『フッサリアナ』ベルギーのルーヴァンに保管されている遺稿を元にした全集

 

『算術の哲学』

数を自然数に換言する主としてクロネッカーらの『算術化』の影響のもとに、『基数』の成立の心理学的考察を行い、結局「一」からなる「数多性」としての数とは、任意の対象の内容を捨象して行われる「集合的結合」という心理的作用の内にその構成の基礎を持つものと捉える。

 しかしその後、カントールとフレーゲの影響により、考えを修正し、数とは心理的作用によってのみ形成されるものではなく、主観の心理的作用に依存せずに存立するイデア性を有するという点が強く自覚されるようになる。

 その結果、イデア的な客観性を主張する立場に移り、論理学的な客観主義の立場へと転じた、

 

ブレンターノとの対立

ブレンターノ

普遍的な本質を言語的虚構と見る。必当然的判断に矛盾するものの思考不可能性というやや概念的な「明証」説を立てる。

フッサール

イデア的な本質の存立を主張する立場をとる。「本質」の「直感的所与」のうちに「明証」の基礎を求める。

 

以上のような中で生まれたのが『論理学研究』であり、その第一巻である『純粋論理学叙説』では、とりわけ当代の心理主義を批判し、心理学が論理学の基礎足りえないことを示した。論理学的諸法則は、実在的、時間的な心理的思考作用とは別次元のものであり、非時間的にイデア的に存立する意味の統一体であり、本質連関である。

 

真理が認識される明証とは、単なる感情ではなく、四年とそれが狙う直感的かつ直接的に現象する事象との合致であるとされた。

 

しかし、フッサールの最大の関心事は、客観的な本質自体が、以上のようであるのも関わらず意味的に把握され認識され、こうした主観の意識作用と連関を持つ点の解明であった。

 

第二巻『現象学と認識論のための研究』

意識作用において与えられる普遍的本質の把握の上に純粋論理学を基礎付けようとする。

したがって、意識とその対象とを、その「思考的相関関係」において見据えて、その関連をありのままに「記述」する根本学すなわち「現象学」の立場に立ち返ったのである。

 

ゲッティンゲン時代のフッサール

フッサールは以上の根本学が、ブレンターノがとくように「経験的立場」の「記述的心理学」ではなく、体験と体験中での己の告示する対象とを、その純粋本質において捉える「純粋」な「現象学」であることを明確に自覚する。

そして、その「純粋」差は、「現象学的還元」と「本質直観」という方法的操作を取ることによって成り立つ。

「現象学的還元」は『現象学の理念』1907において初めて伝えられる。

 

そしてこの「純粋現象学」は1907-08の頃には「超越論的現象学」という積極的性格が与えられ、晩年にまで通じる彼の立場となった。

 

それは意識の志向性との相関関係において、世界が構成される有様をたどりなおす企図であった。

 

現象学派の活動

 

 

 

シェーラー(Max Scheler,1874-1928)

1901年にフッサールと出会い、ミュンヘンの現象学派に加わった人

ニーチェ、ディルタイ、ベルクソンらからの影響や、アウグスティヌスらからの影響を受けた

『ルサンチマンと道徳的価値判断』1913

『価値の顛倒』1919

『同情の本質と形式』1923

『倫理学における形式主義と実質的価値倫理学』1913-16

以上はカトリック改宗者としてのシェーラーの作品である

以下は人間のうちに生成する神を見る汎神論者シェーラーの作品

『人間における永遠的なもの』1923

『宇宙における人間の位置』1928

『哲学的世界観』1929

 

 

シェーラーは、倫理学の諸問題に現象学を適用、しかし、中期以降のフッサールの「超越論的現象学」には与せず、むしろ「本質」の把握を目指す現象学的立場に立つ。したがって、対象の「現存在」(Dasein)を捨象し、むしろその「いかにあるか」(Sosein,essentiaすなわち本質)を把握する「本質観取」(Wesensschau)が哲学の仕事であるとする。

これによって人格的な価値倫理学の展開を図る。

 

諸価値の諸段階

最低次;「快不快の諸価値」

中次:「生の諸価値」

最高次:「精神的宗教的諸価値」

 

彼はカントの「形式主義的」倫理学には反対で、価値のアプリオリの成り立つ本来の場所を愛憎において展開される「実質的」な価値直観に求め、この価値感情の只中を生きるのが、作用中心としての「人格」であるとした。したがって、個々の諸人格は、それぞれ異なった「諸価値の小宇宙」を持つことになる。

 

シェーラーには、永遠的な価値の秩序を考えるアプリオスムスと、人格に根ざす情緒的な価値の遠近法との二面性が伏在している。

 

人格とは、この世界の部分ではなく、この世界において現実を非現実化し、「禁欲的」に「否をいう」ことによってのみ、実現されると見た。精神は、それだけでは無力であり、常に自然の「衝動」との拮抗関係においてのみ、己を開花し得るとする。シェーラーは晩年においてもこの種の二元論を取りつづけ、「衝動」と「精神」との「相克」のうちに「世界の過程」を見、またそれこそが「神の生成の仮定」に他ならないとした。

 

こうして、晩年において現象学は形而上学となり、また未完の「哲学的人間学」に集大成されるべきものとなった。

 

また宗教論において、キリスト教の退潮を見抜き、東洋の文化との接触を強調し、また死の意識こそが生の深みを拓きうると説いて、後の実存哲学に近い考えを示した。

 

哲学的人間学

彼の晩年の著作である『宇宙における人間の位置』において「哲学的人間学」の企図が見られることはよく知られている。

人間学とは元来、16-18世紀に神学の伝統から離れて、単なる自然学ではなく、改めて「人間とは何か」を問い直すことから生じたもので、「自然的、医学的人間学」と「道徳的人間学」とに分かれていた。カントは人間の姿を「実用的」見地から解明する「人間学「」を構想し、その後シェリングなどを介して、人間に関する自然哲学的解明としての「人間学」が栄え、この流れの中でフォイエルバッハなどが「神学」から「人間学」への転換を主張したといえる。

 これにたいして、ヘーゲルは「精神」の営為を解明する「歴史哲学」のほうを高次のものと見た。

しかし、この歴史哲学の観念性への反発から、再びディルタイにおけるように、人間的生や本性あるいはその世界観的表現に即して人間を捉えなおす一種の「人間学」的傾向が生じてきた。

シェーラー以降の哲学的人間学においても、歴史哲学的にではなく、自然の中における人間の位置を見定めるという考察的態度が濃厚である。『宇宙における人間の位置』においては生物的自然的世界構成全体を考えなくては、人間の役割の位置も明らかにならないとされる。

またプレスナーも、『有機体の諸段階と人間』において、「自然哲学なしには人間の哲学はありえない」と説き、ハルトマンや、ボイテンディックもこれに賛同する。

したがって、現代の哲学的人間学には、ユクスキュル、ボルク、ポルトマンなどの生物学者の発言が加わっている。


実存と実存の哲学

種々の兆候

 

 

ヤスパース(Karl Jaspers,1883-1969)

オルデンブルク出身

法律を学んだあと医学を学び、精神病理学を専攻

医師国家試験に合格1908

医学学位取得1909

ヘイデルベルク大学の精神医学のニッスル教授に師事

『精神病理学総論』1913

ヴィンデルバントのもとで心理学の教授資格を取得1913

ハイデルベルク大学で心理学の講義を行う1914

『世界観の心理学』1919

ヘイデルベルク大学の哲学正教授に就任1921

『ストリンドベリとヴァン・ゴッホ』1922

『現代の精神的状況』1931

主著『哲学』1932

『『理性と実存』1935

『ニーチェ』1936

『デカルトと哲学』1937

ナチスにより大学から追放1937

『実存哲学』1938

発禁処分1938

ハイデルベルク大学に復帰1945

後期主著『真理について』1947

『哲学的信仰』1947

スイスのバーゼル大学に移る1948

『歴史の起源と目標』1949

『哲学入門』1949

『現代における理性と反理性』1950

『弁明と展望』1951

『シェリング』1955

『大哲学者たち』1957

『哲学と世界』1958

退官1961

『クザーヌス』1964

「西独は何処へ行くのか」1966

『啓示に面しての哲学的信仰』1967

逝去1969

『哲学的自叙伝』1977

『ハイデッガーとの対決』1978

そのほか小著多数

 

ヤスパースは、精神病理学、心理学から出発し、実存哲学を説いたことで有名である。

主著『哲学』

「可能的実存」すなわち「各自のあり方の根源の根拠付けられないところ」を手がかりとして、究極の「存在」を掴もうとする。

「実存」とは「自己が己に対し、かつその中で超越者に対し、態度を取るもの」のことであり、「決して客観となることのない」、思索や行動の「根源」のことである。

この実存に基づいて存在を照らし出そうとするのだが、その際彼は「超越」という方法を取る。

 

『哲学』は「哲学的世界定位」、「実存開明」、「形而上学」の三部門からなるが、その基本的主張は以下のとおりである。

世界は客観的には全体として捉えられず、各人の実存に基づいてのみ真実に存在認識がなされ、その実存は「限界状況」に直面することによってのみ自覚され、したがって存在の暗号は「挫折」にある。

 

哲学的論理学の方向、「包括者」の論

『理性と実存』『実存哲学』『真理について』など

我々が眺望し得ぬもっとも包括的な存在を「包括者」を呼ぶ。

さらのこれは二つのものに分かれる。

一つは、「我々がそれでありまたそれでありうる包括者」。これが「現存在」「意識一般」「精神」および「実存」という様式において現れる。

二つは、「存在自身であるところの包括者」上の三つに対して「世界」がそして、「実存」に対しては「超越者」という様式で現れる。

これらの包括者の諸様式の「地盤」が「実存」であり、「紐帯」が「理性」である。

 

ハイデッガー(Martin Heidegger,1889-1976)

バーデンのメスキルヒ出身

フライブルクのギムナジウムに在学中ブレンターノの『アリストテレスによる存在者の多様な意味について』を繙読して『存在への問い』に目覚める1907

フライブルク大学に入学1909

最初、神学部に在籍後に哲学に移籍1911

『心理主義における判断論』で学位取得1914

『ドゥンス・スコトゥスのカテゴリー論と意義論』で教授資格取得1915

フライブルク大学の私講師となる1916

この年に転任してきたフッサールと親交し現象学の教えを受ける

マールブルク大学の教授になる1923

『存在と時間』1927

フッサールの退官を受けてフライブルク大学教授に戻る1928

『形而上学とは何か』1929

『根拠の本質』1929

『カントの形而上学の問題』1929

以上が前期ハイデッガー

ナチスの台頭によってフライブルク大学総長に担ぎ出される1933

『真理の本質』1943

『プラトンの真理論』1947

『ヒューマニズムについて』1947

『ヘルダーリンの詩の解明』1944

『森の道』1950

『野の道』1953

『形而上学入門』1953

『思索の経験から』1954

『哲学とは何か』1954

『講演論文集』1954

『根拠の命題』1957

『同一性と差異性』1957

『言葉への途上で』1959

『平静さ』1959

『ニーチェ』1961

『物への問い』1962

『道標』1967

『思索の事象に寄せて』1969

『ヘラクレイトス』1970

『シェリングの自由論』1971

没後メスキルヒに葬られる1976

 

『存在と時間』

「存在の意味への問いを新たに設定すること」を狙い、「存在論」の展開を示すが、その手がかりは「存在了解」を行っている唯一の存在者である人間(現存在」)にある。「現存在」の特色は、自分の存在に関心をもってそれを了解し、それに態度決定をしていくところにある。自ら態度を取っている現存在自身の存在を『実存』と呼ぶ。この実存の本質的構造である『実存範疇』を取り出すところの「現存在の実存論的分析論」が「基礎的存在論」としてなされねばならず、『存在と時間』は実際上この課題の究明に終始する。

 

「解釈学的現象学」

現象とは「おのれを示すもの」のことで、それを「存在者」と考える時「現象の通俗的概念」が生じるが、それを「存在者の存在」と考える時に「現象の現象学的概念」が成り立つと考える。ここでは、現象学と存在論とは同じ物となり、その場合現象「学」的にその存在現象を解明することは、当の事象をありのままに「顕わ」にして見えるようにさせることだとされ、これが、古来以来の「真理」(アレーテイア)の本質であるとされ、真理とはすなわち「隠蔽されたものが顕わに露呈させられること」と見なされた。

現存在の存在の現象学的解明に際しては、その現存在がすでに何らかの存在了解の中に動いているから、その誤った存在了解を破砕してその真相を見えるようにさせるという「力づく」の「解釈学」的現象学が必至とされた。

 

存在一般の意味の解明

実存はそこで「存在の明るみ」の中に立つものと捉え返された。存在は存在者となっておのれを「顕現」させるが、同時にその影に見を「退行」させ隠す。このようにして、秘密を内蔵しながら顕在化してきた「存在者」に、人間は目を奪われ、根源の「存在」を見失う「存在忘却」に陥ることが、必然的に帰結され、これが「存在の運命」とされた。このような「故郷喪失」の「夕の国」の「存在史」である「形而上学」は、プラトンに始まり、近代以降「主体」を中心に据え「意志」において存在を支配しようとする「世界統握」の時代となって現れ、現代の「技術」時代においてその絶頂を極める。

ハイデッガーはこれら全てに対して批判の刃を向け、存在の真理を見守る「詩的思索」を説いた。


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